映画『寝ても覚めても』の朝子に見た、上位互換という幻想

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幻想

映画『寝ても覚めても』を観た。公開後しばらく経っていて、そろそろ終盤なんだと思う。シネクイントでは最終上映日だった。きっかけは、『あん』の感想を書いたときにコメントのやりとりをした方からオススメをいただいたから。

オススメいただいた方曰く、

強者の映画、弱者の映画と強引にカテゴライズする場合、「あん」は弱者の映画ですが、これはもてる男女の話なので強者の映画

とのことで、共感されづらい面があるそう。twitterで作品名を検索してみても、「朝子(ヒロイン)の行動が理解できない」「ある意味ホラー」という言葉が目立つ。

映画『寝ても覚めても』あらすじ

以下、感想を書くけど、映画を観てない人には意味不明だろうな。 一応、あらすじを。

同じ顔をした二人の男と、一人の女・・・。人は人の何に惹かれるのか?
心をかき乱し、恋愛観を揺さぶる「大人の恋愛映画」の傑作が誕生!
東京。サラリーマンの亮平は、会社にコーヒーを届けに来た朝子と出会う。真っ直ぐに想いを伝える亮平に、戸惑いながらも惹かれていく朝子。ふたりは仲を深めていくが、朝子には亮平に告げられない秘密があった。亮平は、かつて朝子が運命的な恋に落ちた恋人・麦に顔がそっくりだったのだ――。
同じ顔をした二人の男と、その間で揺れ動く女の8年間を丁寧に、そしてスリリングに描く本作は問いかける。人はなぜ人を愛するのか?その人の何に惹かれ、なぜその人でなくてはならないのかー?傷つけ、傷つきながらも、誰かを愛さずにはいられない。まっすぐな想いが引き起こす衝撃の展開に、観る者は共感、時に反感さえ覚えるだろう。心をかき乱され、恋愛観を揺さぶられる、ただならぬ「大人の恋愛映画」の傑作が誕生した。

映画『寝ても覚めても』公式サイト

あと、原作小説のあらすじ(注:完全ネタバレです)も。映画版とはディテールがぜんぜん違うけど、ホラーと言われる所以は分かるかと。

共感はまったくできない

で、観た感想だけど、正直言って、たしかにまったく共感できなかった。そもそも恋愛経験が多くないので共感しづらいジャンルではあるのだけど、その中でも群を抜いて共感できなかった。ネット上で非難轟々(笑)の朝子が“傷つけ、傷つ”く部分はもちろん、他の登場人物も含め感情の動きがいちいち唐突で、置いてけぼり感があった。

ただ、つまらなかったかというとそういうわけでもない。ジェットコースターのような展開で、幸せと不幸せの波を畳み掛けられるで、飲み込まれるように観てしまった。そんななかで、登場人物の「共感できなさ」が適度に現実に引き戻してくれる。意図されたものなのか、感情移入できそうなタイミングで「え? こいつ何?」という行動や言動がはさまる。 ついついどっぷり浸りそうなところで、強制的に息継ぎさせられるというか、なんかそんな感じ。

けれど、理解はできる。

共感はできなかったけれど、理解できないものに感じる恐怖はなかった。朝子のあの行動に、合ってるかどうかはともかく、理由を見つけられたから。あの行動というのは、“朝子が亮平を捨て、麦の元へ行ったのにもかかわらず、すぐさま亮平のもとへ戻った”行動だ。

作中、二人がまだ幸せだったころ、麦のことを聞かされた亮平が「アイツ(麦)に似てたから朝子と付き合えたってことやろ? じゃあオレ、ラッキーやん」という趣旨のセリフを吐く。たしかに、亮平のなかの麦の面影が、亮平の魅力を高めていたのは事実だろう。でも、顔が似ていることの恩恵を受けたのは、亮平だけではなかったんじゃないか? 朝子が麦に付いていったのは、麦が亮平に似ていたからなのでは?

朝子は、亮平と麦を同一視していた(もちろん無意識に)。そのせいで、亮平の優しさや誠実さが、麦にもあると錯覚してしまった。でも、二人は顔が似ているだけの別人で。麦には麦の優しさがあるけれど、“麦の優しさ”と“亮平の優しさ”は別物で、朝子が愛していたのは“亮平の優しさ”だった。麦と過ごしたあのわずかな時間で、そのことに気付いた。朝子の「(麦は)亮平じゃない」というセリフがそれを物語っている。あのバカな行動の原因には、初恋の魔力もあっただろう。でも、それ以上に、亮平と麦を同一視してしまったことによる混乱と幻想が大きかったんじゃないだろうか?

上位互換という幻想

上位互換という言葉がある。もともとはIT製品に使われていた言葉だけれど、今はその他のモノや人にも使われていて「似たような役割や特徴を持つが、より優れているものや、下位製品にはない美点があるもの」を指す。
朝子は、あのとき麦を亮平の上位互換と錯覚していたんじゃないか? スペックとかの打算的な意味ではなく、愛する対象としての上位互換。亮平の優しさを持ち合わせつつ、亮平にはない、怪しい魅力を備えた存在として。もちろん、現実の人間には、上位互換は存在しない。ある尺度で比べたときの上位下位はあれど、別の点では上下が入れ替わったり、性質が全く違ったりする。それに気付いた朝子は、自分が愛した優しさは、亮平の仲にしかないことを知り、彼の元へ帰ることを選んだんだと思うのだ。

思えば、上位互換幻想って、別に朝子じゃなくたって誰でもが抱きがちなものだと思う。恋愛に限ったことじゃなく、仕事でも、住む街や家についても言えることだから。例えば、転職活動。転職を考えるとき、人は“今の会社にはない魅力”を備えた会社に出会うと、あらゆる面で今の会社より優れていることなど何一つ内容に感じてしまいがちだ。でも、そんなことはまずない。今の会社にしかない、次の会社では再現し得ない魅力もきっとあるはずだ。同僚が付けてくれたあだ名があるとか、馴染みの定食屋さんが近くあるとか、ごくくだらない魅力かもしれないけれど。

肯定はしないけれど、クズだとは思えない

少々脱線したけれど、そんなこんなで、朝子の行動から理解不能の恐怖は感じなかった。ただ、行動原理が想像できたからといって、あの行動そのものを肯定するわけではない。というか、ドン引いてはいる。自分が同じことをされたら、とてもじゃないけど許せないし、憎むむだろうとは思う。でも、他人の出来事として観たとき、なぜか受け入れられた。不思議とクズだとは思えなかった。

多くの人が書くように、彼女は純粋すぎたんだろう。最初に麦と出会ったときの反応も、亮平とはじめてあったときの反応も、マヤがけなされたときの反応も、全部が素。打算も忖度も遠慮、そして情け容赦もない。だから予測できないような行動をするし、社会通念上アウトなこともできちゃう。ただ、そこに悪意は感じられない。そういう意味では、無垢ゆえの恐怖みたいなものは感じる

と、つらつら書いたけど、まだ消化しきれていないというのが正直なところ。時間を置いて何か書き足すかも。とりあえず、10/6はここまで。あと最後に、しょうもないメモも。

  • 朝子役の唐田えりかが絶妙に可愛かった。年齢不詳感あったけど、まだ21なんだ。
  • 個人的に、有川浩の『レインツリーの国』の主人公の関西弁が嫌いなんだけど、亮平のしゃべりから同じ印象を受けた。妙にコテコテ。春代もコテコテだけど、あれは関西人がわざとコテコテで喋ってる感じでリアル。麦バージョンは大丈夫。朝子の関西弁は普通にかわいい。
  • 瀬戸康史はいい声。
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