「自由の学風」と「自由な学風」は違う

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自由な女神?

京都大学の学風は「自由“の”学風」

本庶佑先生のノーベル賞受賞やら、吉田寮の退去問題やらで京都大学が話題になってますね。それ自体はいいんですが、OBとしてはちょいちょい気になることが……。ツイートもしたんですが、

「の」と「な」を間違えてる人めっちゃ多い。まあ、なかなか微妙な差なので勘違いがあっても仕方ないとは思うのですが、情報のプロたる新聞社まで間違えてるのはなんだかなあと思う次第です。しかも見出しに「」で括ってまで使ってる(≒記事の主題にしてる)のに。

「の」と「な」じゃぜんぜん違う

「の」と「な」の差って何? って思う人もいるかと思うけど、似たようでぜんぜん違う。 「自由の」は名詞+同格の助詞で、英語では「of Liberty」。「自由な」は形容動詞で、英語では「free」。

例えば、「自由の女神」は自由を象徴する女神だけど、「自由な女神」というと、自由奔放に振る舞うわがままな女神が創造される。「自由」に限ったことじゃなく、「平和」とかでも同じで、「平和の祭典」というと平和そのものを主題にした祭典だけど、「平和な祭典」というと単に平和に終わった祭典のうちの1つでしかない。サッカーW杯も、カンヌ映画祭も、地域の秋祭りも、平和に済めば「平和な祭典」と言える。けど、それらが「平和の祭典」かというと、それは違う。

「自由の学風」は自由の象徴たる学風

文法上の違いは置いといて、学風が教員や学生に与える影響はなんだ? という点で見てもそこには確固たる差がある。

「自由な学風」の場合、教員や学生は自由さを活かして学んでもいいし、自由さをあまり活かさず学んでもいい。「自由な」のは学風の特徴の1つであって、それを活かすも殺すも自由だ。なんだったら、学ばなくたっていい。自由だから。

「自由の学風」の場合はそうはいかない。自由そのものが京都大学の学風であって、自由を体現した学び方をしていないものは、京都大学にふさわしくない。教員も学生もそれに意識し、主体的に動き、自由を体現した学びを重ねることが求められる。

まあ、そんなの理念の話なので、実態は別ですが。僕自身、在学中は「自由“な”学風」を謳歌し、極めて受動的にしか学ばなかったし。だからこんな文章を書いても今更ではあるのだけど、せっかく母校が注目を浴びてるしってことで、書いてみた。

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